1984年10月9日。「メルヘンの木」を見た後は昼頃に麓郷の市街地に戻り、摩周湖 Y.H. と富良野ホワイト Y.H. で偶々一緒になった永井姉妹と共に「麓郷の森」へ。その時は『北の国から』を知らなくて、自分一人だったら行くことはなかったと思う。

富良野ホワイト Y.H. から麓郷へは、国道38号から道道544号に入り布部川沿いの麓郷街道を走ったので、道道253号(当時は道道162号)のハートヒルパーク展望台があるところを富良野市街に戻るつもりでした。富良野市街→道道544号→麓郷→道道253号→布礼別→八幡丘→富良野市街という周遊ルートになるからです。

ところが八幡丘を通過したら舗装道は終わり、ダートの急な下り坂が待ち構えていました。富良野市街とスキー場が見える景色の良い道でしたが、転倒のリスクを考えて引き返すことに。結果的に上の写真を撮ることができた訳で、良しとします。2年後、1986年7月のツーリング時は下りましたよ。

富良野八幡丘の牧草地と農業機械 - 1986年
富良野八幡丘のなだらかな丘陵地の牧草は緑色。遠くにポプラの木。トドマツの根元に使うことがなくなったと思われる2台の農業機械が置いてある。

2年後、ラベンダーの時期に再度この場所を訪れた。納屋のような建物の外観に変わりはなかったが、近くのトドマツの周りに使うことがなくなったと思われるレトロかわいいトラクターが置いてあった。オブジェか何かですか?富良野市街からダートの急坂を登り切った先、八幡丘の丘陵地にこのような風景を目にしたら……停まって写真撮るよなぁ。1986年7月撮影。

道道253号沿いで多くの『北の国から』の撮影が行われたらしく、『北の国から』探訪マップでは道道253号を「北の国から」ロードと呼んでいます。八幡丘の丘陵地に建つ「赤い屋根の家」、当時は納屋のように見えた建物は、ロケ撮影したくなるようなのに全く映っていません。不思議だ。

納屋のような建物は、1989年頃から赤い屋根の「黄色」の家へと外観が変わり、テレビ番組のロケ撮影が行われました。NHKテレビ『おかあさんといっしょ』内の人形劇「にこにこぷん」で、家はじゃじゃまるたちが暮らす「にこぷんハウス」、家が建っている八幡丘は「のびのび村」という設定です。

現在、Google マップや他の地図サービスの航空写真に八幡丘の「赤い屋根の家」を見つけることはできません。跡形もなく消えてしまったようです。ウェブ上で写真や映像を検索しても、表示される結果はほとんどが美瑛の赤い屋根の家。八幡丘のあの波状丘陵地の風景が好きだったのに残念です。

納屋のような建物の空中写真

初めて見た時、納屋のような建物は、波状丘陵地の牧草の中で取り残されたような感じがしました。建物までの道は畦道のような、あと数年もすれば牧草と一体化して道があったことなど忘れ去られてしまうような道です。

どのような過程を経てこの建物が牧草地に取り残されたのか。地理院地図の1984年以前の空中写真で、建物があった場所を確認してみました。1977年は、建物1棟と木が2本という1984年と同じ配置です。

1972, 67, 63, 60年は、複数の建物とその周りに木々、道道253号から建物までのはっきりとした道、そして周囲は未開墾の林が多く残っています。最も古い空中写真は、1947年(昭和22年)に米軍が撮影したもので、不明瞭ながら建物らしきものが写っています。

北海道開拓史の中の八幡丘

ところで、1984年10月、ダートの急な下り坂を下りるのを諦めて、道道253号を麓郷へ引き返すことにしたため納屋のような建物と波状丘陵地形の写真を撮ることができた訳ですが、八幡丘と麓郷の間の中間くらいのところに布礼別という市街地があり、布礼別と麓郷は5[km]くらいの距離です。

布礼別は、浜益村の本間豊七さんという人が1901年(明治34年)に国から無償で貸し下げを受けた未開地を、本間牧場と称して牧場小作人を入植させて開拓した最初の地域で、一定期間内に農地転換した場合、その土地は貸し下げを受けた人の所有になりました。

布礼別の開墾に成功すると、開拓は現在の富良野市八幡丘、富岡、中富良野町の本幸、上富良野町にまで及び、広い農地面積を有した本間牧場は、食用作物と飼料作物の栽培および家畜飼育を行っていたようです。八幡丘の開拓は、布礼別に遅れること数年で始まったと考えられます。

八幡丘にある八幡丘会館は、1973年(昭和48年)に閉校した富良野町立八幡丘小学校の校舎で、1931年(昭和6年)に下富良野村立八幡丘尋常小学校として建築されたもの。学校設立は1917年(大正6年)で、大地主の本間さんが学校敷地を寄贈したそうです。

話は変わって麓郷について。ここは、1899年(明治32年)に内務省から国有林の移管を受けて設置された東京帝国大学農科大学試験地、現在の東京大学北海道演習林に林内殖民制度を利用して入植した林内殖民が開拓した土地です。

後に地名を麓郷と命名される布部地区の開拓が始まった年は1918年(大正7年)。原生林から転換された農地が最初に払い下げられた年は1921年(大正11年)で、この年が「麓郷の開拓の始まり」とされています。

つまり、麓郷の開拓は布礼別に遅れること約20年。八幡丘よりも遅れて開拓されたことになります。麓郷の開拓が始まった年には既に、八幡丘は小学校が必要になっていたのですから。

  • 1901(明治34)年に布礼別の開拓が始まる。
  • 1911(明治44)年頃に八幡丘の開拓が始まる。
  • 1916(大正5)年に現在は扇山にある三好牧場が設立。始まりは八幡丘ではないかと思われる。
  • 1917(大正6)年に八幡丘に下富良野村立八幡丘尋常小学校が開校。
  • 1921(大正11)年は麓郷の開拓の始まり。
  • 1947(昭和22)年の米軍撮影の空中写真において、八幡丘の三好牧場の農地に建物を確認。
  • 1957(昭和32)年に北海道道162号として路線認定。八幡丘から富良野市街へ行く時、下り始めに急勾配のスプーンカーブが2つ連続、しかもダートという一度は進むのを諦めたあの道。
  • 1960, 63, 67, 72(昭和35, 38, 42, 47)年撮影の空中写真において、八幡丘の三好牧場の農地に複数の建物とその周りに木々を確認。
  • 1967, 72(昭和42, 47)年撮影の空中写真において、扇山に現在の三好牧場らしき建物を確認。
  • 1973(昭和48)年に八幡丘の富良野町立八幡丘小学校が閉校し、市街の東小学校に統合。
  • 1977(昭和52)年撮影の空中写真において、扇山に現在の三好牧場の建物を確認。
  • 1977(昭和52)年撮影の空中写真において、八幡丘の三好牧場の農地に建物1棟と2本の木を確認。
  • 1981(昭和56)年に麓郷を主な舞台としたテレビドラマ『北の国から』が放送開始。このシリーズで八幡丘の「赤い屋根の家」がロケ地となることはなかった。
  • 1984(昭和59)年にテレビドラマ『北の国から』のロケ地を観光名所として整備した「麓郷の森」がオープン。富良野市の観光資源三本柱はスキー、ラベンダー、北の国からになった。
  • 1984(昭和59)年10月に八幡丘で波状丘陵地に建つ納屋のような建物を撮影。冒頭1枚目の写真。
  • 1989年頃から八幡丘の納屋のような建物の外観が赤い屋根の「黄色」の家に変わり、NHKテレビ『おかあさんといっしょ』内の人形劇「にこにこぷん」で「にこぷんハウス」として使われた。
  • 1994(平成6)年に北海道道162号を253号に変更。緩勾配化や舗装路化、ハートヒルパーク展望台の設置などの改良工事は10年以上続いた。
  • 2002(平成14)年放送の『北の国から2002遺言』をもって『北の国から』シリーズは終了。
  • 2017(平成29)年頃?八幡丘の三好牧場「赤い屋根の家」は無くなった。

三好牧場始まりの地が明治の終わり頃の八幡丘に入植して開墾した波状丘陵地だとすれば、かつてそこに建っていた象徴的な「赤い屋根の家」は、その時々の時代において何を表現しようとしていたのだろうか?

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雲ひとつない晴天。なだらかな地形に広がった農地に2本の「メルヘンの木」。その葉は緑色が抜けて秋の装い。後ろの山々は前富良野岳や大麓山(たいろくさん)など、雪で白くなった山は富良野岳だろうか。

富良野麓郷「メルヘンの木」

『北の国から』を初めて観たのは、放送が終わって20年以上経った2005年頃です。東京側ではなく麓郷が地元のような目線で見れたので、「メルヘンの木」がチラッと映っただけでも何か嬉しく感じたものでした。観てから訪れたのではなく、訪れてから観たからなのでしょうね。

なだらかな傾斜のついた波状丘陵地形の牧草地に立つ1本の木。季節は夏。周りには牧草ロールがいくつも転がっている。

富良野八幡丘「春よ来いの木」

現在は無くなってしまった八幡丘の「赤い屋根の家」から道道253号を富良野市方向へ1[km]ほど走って左側、牧草地の中に立っている1本の木に気付くと思います。最近では「春よ来いの木」とか「八幡丘ツリー」などと呼ばれるも、元々は「無名の木」。この木が見てきた移り変わりに思いを巡らします。