前期試験が終わって後期の授業が始まるまで、約2週間の休みを使って北海道に行くことにしました。1984年9月22日に仙台から苫小牧行きフェリーに乗船したら、ライダーは名古屋からのひとりだけだったと思う。

その人と一緒に走って着いた札幌は、本当に北海道なのか?というくらい暑かった。大通り公園で見た温度計の表示は26[℃]。季節が1ヶ月戻った感じで、汗をかきながら札幌ラーメンを食べました。美味しかったかどうかはわかりません。今も昔もほとんどラーメンを食べないので。

小樽を過ぎて国道229号に入ると、ようやく走って楽しい道に。ちょうど1ヶ月前にも走っていたので、このシリパ・セタカムイラインがちょっと癖のある道だということは分かっていました。トンネル内とその出入口は速度を抑えて慎重に。

美国ユースホステル開所13周年記念宿泊スタンプカード - 1984年
1984年9月26日は美国ユースホステル開所13周年。青春13楽章。宿泊スタンプカード。

8月23, 24日の「虹の連泊コース」後、友人とその彼女と別行動したくなったので、25日も美国ユースホステルに滞在することにして3連泊。この時、女性のヘルパーに「来月の26日は開所13周年だから来てね」と言われた記憶がある。そして9月、23日から開所記念日を過ぎてもズルズルと30日まで8連泊。イベントが無かった日はどう過ごしていたんだろう?

手元にあるネガフィルムから最近になってプリントした写真を詳しく見たら、食堂の壁には「愛とロマンのサスペンスコース」の略図が写真付きで貼ってあったり、コースの見どころが写真パネルで説明されていました。8連泊もしたのだったら、積丹岳登山や秘境「大滝」に挑戦してみたら、と今なら思う。

美国ユースホステルの前で - 1984年
美国ユースホステルの前で、見送りの記念撮影。

撮影日は1984年9月24日か25日、運動会から戻ってきた時の写真かな?美国ユースホステルの前で記念撮影。ここがユースホステルであることを主張するものは JYH の三角マークのみ。39年後(2023年)にタイムスリップしても、瓦を使った屋根の形やアーチ窓、入口の引き戸、レンガ風の装飾、色など、御宿かさいの建物左側と外観がほとんど変わっていない。

開所13周年記念日

「美国のかあさん」の挨拶 - 1984年
美国ユースホステル開所13周年記念の特別な夕食およびミーティングの前に、ペアレントである「美国のかあさん」の挨拶。

民宿と兼業の美国ユースホステルは、小学校の校舎のような宿泊施設にはない「旅の我が家」的な感じが強いので、ペアレントという言い方をしないで「美国のかあさん」みたいに呼んでいたホステラーもいたんじゃないかな。自分は気恥ずかしくて、そんな風に親しく呼べなかったけれど。1984年9月26日撮影。

市町村(地方公共団体)の美国町にあるから美国ユースホステルという名称なのだと、長い間思い違いをしていました。役場も美国町にあったし、周辺の地区と比べたら住宅が多くて中心的な街に見えたけれど、積丹町の中の地区のひとつが美国町だったのですね。

積丹町の広報「しゃこたん」平成26年5月号に、積丹町商工会女性部を代表して「美国のかあさん」が交通安全の願いを込めた「愛の鈴」を新入学児童へ手渡す写真が載っています。この活動は昭和53年から毎年続いているそうで、鈴を一つ編み上げるのに30分以上かかるとのこと。

7連泊するともらえた「幸福の黄色い鈴」は、毛糸で編んだベルの中に鈴が付いていて、ベルを吊るす部分にリボンが結んでありました。「愛の鈴」と同じものであれば、車の運転席に「幸福の黄色い鈴」を吊るしていたことは、あながち間違いではなかったのだろう。

「愛とロマンのサスペンスコース」略図 - 1984年
食堂の壁に貼られた「愛とロマンのサスペンスコース」の略図。岬めぐりツアーの神威岬と積丹岬が主なコース。美国から最寄りのバス停までの距離と所要時間、そこから歩く距離と所要時間が書いてあった。

壁に貼られた「愛とロマンのサスペンスコース」の略図。当時の国道229号には未開通区間があったため、バスは余別が終点の余市・小樽からのピストン路線。神威岬と積丹岬の岬めぐりツアーを1日かけて(約7時間)歩くと、その日の移動が難しくなって連泊。積丹岳登山や秘境・大滝川の大滝ツアーも「虹の連泊コース」の罠だった模様。1984年9月26日撮影。

開所13周年記念週間中に積丹岳登山が予定されていたと思うのですが、中止になった?天候は悪くなかったし、記憶があやふや。バス停「登山口」から積丹岳山頂まで3時間30分、下りは2時間と書いてある。

神威岬海岸ルートの写真パネル - 1984年
食堂の脇の和室前で宴会後の記念撮影。神威岬への海岸ルートで撮った写真パネルが掛けてある。念仏トンネルに入っていくところや念仏トンネルの中から神威岬を見たところ、水無しの立岩と遠くに見える神威岩など計5枚。

宿泊者の男女比率が 4:1 くらいで、圧倒的な男余り状態。写真を見返すと、女子の肩に手を回す男子が多い多い。自分も、ハグしている写真があって人のことは言えないのだが……それはさておき、神威岬への海岸ルートの写真パネルが掛けてあったとは気付かなかった。念仏トンネルの中から神威岬を見る構図の写真を撮りたかったなあ。1984年9月26日撮影。

女郎子岩とピリカ岬の写真パネル - 1984年
宴会中の集合写真。ビールを飲んで陽気になった若者たちは、カメラを向けられるとフレーム内にギュッと寄って来て、肩を組んだりピースサインを出したり笑っている。

みんなビール飲み放題の所為で酔いが回って陽気になり、カメラを向けられるといつもこんな感じに。前列の男子は、3連泊するともらえたビー玉の首飾りを掛けている。「愛とロマンのサスペンスコース」略図の右には、その岬めぐりツアー積丹岬コースの見どころ、女郎子岩とピリカ岬の写真パネルが。ピリカ岬のピークに柵は無く、怖かった。1984年9月26日撮影。

夫婦岩の写真パネル - 1984年
食堂の壁に貼られた「愛とロマンのサスペンスコース」略図の前での集合写真。後ろに日司町の夫婦岩と思われる写真パネルが見える。

食堂の壁に貼られた「愛とロマンのサスペンスコース」略図の右には写真パネルが3枚。女郎子岩とピリカ岬、神威岬と神威岩、そして写真右上に見える「2つの岩」。女郎子岩や神威岩と並ぶほど有名な奇岩だったのだろうか?サスペンスコース略図に照らせば日司町にあると思われる夫婦岩。当時の岬めぐりツアーでは完全スルーだった。1984年9月26日撮影。

ストリートビューで探してもそれらしい岩は見つからず、検索しても有力な情報は無し。地理院地図の1976年撮影空中写真を見ると、岩礁から突き出た2つの岩らしきものを確認できますが、日司漁港が拡大・整備された時に消滅したようです。短いトンネルも開削されて見通しの良い道路になっているし。

夫婦岩のいわれ - 1984年
美国ユースホステルの宿泊スタンプ用カード。日司町にあった夫婦岩のいわれとその絵。

天地創造を司る神、コタンカラカムイは、日本海側を女の、太平洋側を男の神様に海岸線の整備を発注。女の神様が友達とおしゃべりしている間に太平洋側はほぼ終了。慌てた女の神様は日本海側の海岸をやっつけ仕事で間に合わせた。だから積丹の海岸線が急崖なのだとか。海岸造りを終えた二人の神様は日司で夫婦になり、幸せに暮らしたというのが夫婦岩のいわれ。

「美国のかあさん」と記念撮影 - 1984年
食堂脇の和室で若者たちが「美国のかあさん」と記念撮影

1984年9月26日、この日に撮影した最後の写真。9月30日まで美国 Y.H. に連泊。10月1日は札幌でヘルパーたちと飲み、みんなで全日空ホテルに宿泊(大広間で雑魚寝)。10月2日まで撮った写真は無し。

関連する他の二輪旅写真

美国 Y.H. 岬めぐりツアー御一行様、1時間近く海岸沿いを歩いてきたにもかかわらず、疲れも見せないで神威岬展望広場に集まって記念撮影。右後方は神威岩。

海岸を歩いて目指した「神威岬」

1984年8月下旬、バイクで初めての北海道をツーリング。美国 Y.H. の積丹半島岬めぐりツアー「愛とロマンのサスペンスコース」、神威岬コースと積丹岬コースに参加しました。「バイク乗り」は歩くことを避けがちですが、徒歩でなければ行けない場所なので、歩く旅の楽しさをちょっとだけ体感したのでした。

積丹岬遊歩道島沿いの断崖の上から海を見ると、女性が立っているような形の巨岩、女郎子岩が目に入る。

積丹岬自然遊歩道「女郎子岩」

1984年8月24日、美国 Y.H.積丹半島岬めぐりツアーに参加しました。午前中は海岸を歩いて岬の先端を目指す神威岬コース、午後からは積丹岬コース=積丹岬自然遊歩道を歩きました。多少アップダウンのあるこの道は、革ツナギにブーツのバイク乗りの恰好やビーチサンダルでも歩くことができます(※経験者の感想)。

1984年8月26日、小樽市塩谷海水浴場付近から遠く積丹半島を望む。竜ヶ岬の後方に尖ったシリパ岬が見える。そこから右に積丹岬の東海岸側が水色、薄水色に見える。

旧国道229号「シリパ・セタカムイライン」

古平町のセタカムイ岩から余市町のワッカケ岬までの岬群にトンネルが掘られ、海岸線沿いに造られた「海岸道路」は、1958年(昭和33年)10月に国道229号として全線開通。1984年8月、慎重な走りを要求される道でしたが、トンネルを抜けては目に飛び込んでくる海に目を奪われました。