HbA1c : 非酵素的な糖化反応でグルコースが結合したヘモグロビン
- はじめに
- 糖尿病の臨床分野で HbA1c と言えば、血糖コントロールを評価するための指標となるバイオマーカーのことですが、その実体の糖化ヘモグロビンであるところの HbA1c(ヘモグロビンA1c)は、糖尿病とは全く関係の無い分野の研究対象でした。
HbA1c という語句の出現は、1958年の論文に見ることができます。クロマトグラフィーによって成分別に分離された画分を便宜上命名した名前としての記述でした。この時点では、これ以上でもこれ以下でもなかったと思われます。
- 1958年
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正常なヒト成人ヘモグロビン(HbA)を陽イオンクロマトグラフィーを用いて分析したところ、分離順に主要成分の HbA0 画分と微量成分の HbA1 画分を観察した。後者にはさらに3つの画分が観察され、HbA1a 、HbA1b 、HbA1c と命名した。
Observations on the chromatographic heterogeneity of normal adult and fetal human hemoglobin: a study of the effects of crystallization and chromatography on the heterogeneity and isoleucine content.
20数年後、HbA1c 画分のヘモグロビンは糖化ヘモグロビンであることが明らかになります。その生成反応を踏まえると、糖化ヘモグロビンは糖尿病の分野で利用できるのではないかと示唆されました。
下図は、ヘモグロビンが糖化されて HbA1c を生成する反応の概略を表したものです。ヒト成人ヘモグロビン(HbA またはヘモグロビンA)のうち、グルコースなどの付加物が無いまっさらな状態のヘモグロビンであることを示したい時に HbA0 またはヘモグロビンA0 と使うようです。
循環血液中のグルコースは、最初の可逆的反応段階で赤血球内のヘモグロビンβ鎖N末端バリン(Val)に結合して不安定なシッフ塩基を形成します。不可逆的反応段階に進むと、安定したケトアミン構造のアマドリ化合物を形成(メイラード反応の前期段階に相当)し、HbA1c が緩徐に生成されます。“Schematic illustration of the formation of glycated hemoglobin (HbA1c)” by Sebastian Horber is licensed under CC BY-NC-ND 4.0.
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- グルコースとヘモグロビンAを構成するポリペプチド鎖の遊離アミノ基 -NH2との間の非酵素的反応によって生成する安定したケトアミン構造のアマドリ化合物で、グルコースの結合部位、結合数、糖化状態が異なる複数種から成るヘモグロビン分子群。
- 遊離アミノ基は、ペプチド結合 -CO-NH- をしていないアミノ基のこと。グルコースが結合する部位の大部分はβ鎖N末端バリン残基だが、α鎖N末端バリン残基やα鎖およびβ鎖のリジン(Lys)側鎖のアミノ基にも結合する。
- シッフ塩基結合をしている糖化の状態が不安定な HbA1c は、血中グルコース濃度が下がると急速にグルコースがヘモグロビンから離れる。血中グルコース濃度が上がると急速に不安定な HbA1c を形成する。
HbA1c という語句から認識させようとする中身は、コンテクストによって変わります。上記「HbA1c(ヘモグロビンA1c)」の説明は、グルコースをヘモグロビンAに結合する反応によって生成されるすべてのヘモグロビン分子、としてです。
1980年代頃までは、HbA1c に「ヘモグロビンのグリコシル化(glycosylation of hemoglobin)」とか「グリコシル化ヘモグロビン(glycosylated hemoglobin)」という用語を使用していました。
グルコースとヘモグロビンとの間の非酵素的反応の生成物である HbA1c は、シッフ塩基の形成とそれに続く1-デオキシケトシル誘導体へのアマドリ転位の結果として生じるアマドリ化合物であることが明らかになったので、酵素的反応のグリコシル化によって生じる配糖体であることは否定されました。
HbA1c に「glycosylation」という用語を使用することは不適切になったので、1985年に IUPAC(国際純正・応用化学連合)- IUB(現在の国際生化学・分子生物学連合)合同委員会は、「glycation(糖化反応)」という用語の使用を推奨しました。
The terms ‘protein glucosylation (or glycosylation)’ and ‘glucosylated (or glycosylated) hemoglobin’ have been used improperly to refer to the products of non-enzymic reactions between glucose or other sugars and free amino groups of proteins. Compounds formed in this manner are not glycosides, however, as they result from the formation of a Schiff base followed by Amadori rearrangement to 1-deoxyketosyl derivatives of the proteins. …… The term ‘glycation’ is suggested for all reactions that link a sugar to a protein or peptide, whether or not they form a glycosyl bond. …… Nomenclature of glycoproteins, glycopeptides and peptidoglycans. Recommendations 1985. - Eur J Biochem 1985;159:1-6.
「glycation」という用語は、sugar(糖)を protein(タンパク質)または peptide(ペプチド)に結合するすべての反応に対して推奨されました。
Glycation による生成物の名前は、glycoprotein(糖タンパク質)です。ヘモグロビンとの特別な反応の場合には glycohemoglobin(グリコヘモグロビン)を、必要に応じてより正確な名前である deoxyfructosylhemoglobin なども使用できることを挙げています。
Glycosylation の使用が不適切になったから glycation が推奨されたのに、「glyco-」という接頭語を付けて glycohemoglobin という生成物の名前な訳で、紛らわしいですね。Glycated hemoglobin(糖化ヘモグロビン)の方が多く使用されているようです。
- 糖化ヘモグロビン
- 糖化反応(glycation)により生成したヘモグロビン(glycated hemoglobin)。ヘモグロビンの種類、糖(sugar)の種類、糖がヘモグロビンに結合する反応の種類、結合の種類、結合部位、結合数は問わない。グリコヘモグロビン(glycohemoglobin)とも言う。
- グリコヘモグロビン
- 糖化ヘモグロビンと同義。Glycohemoglobin の「glyco-」は、糖鎖(glycan)のこと。
- Glycation による生成物の名前は、「反応物 + 反応物」という命名法に従うと「glycan(糖鎖)+ protein(タンパク質)」であり、glycan 由来の接頭語 glyco- を付けて glycoprotein(糖タンパク質)になる。Glycohemoglobin も同様の命名法による。
HbA1c 画分のヘモグロビンの構造と生成反応が解明された時点において、「HbA1c」と表記されたヘモグロビンは、グルコースが HbA のβ鎖N末端バリン残基(この部位が最も糖化されやすい)に特異的安定的に結合している糖化ヘモグロビンのことでした。
HbA1c とは、糖化部位がβ鎖N末端バリン残基の1か所だけなのか、それともα鎖N末端バリン残基やα鎖およびβ鎖のリジン側鎖のアミノ基が糖化していてもよいのかなど、構造や生成反応を解明する研究においては、その点を問う必要性が無かったと思われます。
HbA1c の識別
1960年代、X線結晶構造解析の手法によりヘモグロビンのタンパク質としての四次構造が明らかになります。ヘムと結合した同一種のグロビン(α鎖、β鎖、γ鎖、δ鎖の4種類が存在)2本で1つのサブユニット、これが2種類、計4本のポリペプチド鎖が会合する4量体構造です。
α鎖、β鎖、γ鎖、δ鎖の遺伝子によってヘモグロビンの生合成が制御されているという意味で HbA、HbA2、HbF の3種類が正常ヘモグロビンです。成人では HbA(ヘモグロビンA)が大部分を占めます。
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ヘモグロビンA ; HbA(成人型): α2β2
- HbA0 : 翻訳後修飾有りの A1 に対して翻訳後修飾が無いという意味での A0
- HbA1 : HbA1a , HbA1b , HbA1c ; 後に HbA の翻訳後修飾であることが明らかになる
- ヘモグロビンA2 ; HbA2(成人型の変異体): α2δ2
- ヘモグロビンF ; HbF(胎児型): α2γ2
構造が解明されたヘモグロビンは、アミノ酸配列の変異や翻訳後修飾(タンパク質がその生合成の後方のステップで化学的な修飾を受けること)などによって構造が変化したタンパク質の生物学的機能に関する研究対象として、最適なタンパク質のひとつでした。
- 1966年
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ヘモグロビンAの HbA1c 画分は、ヘモグロビンAのβ鎖アミノ基末端に未同定の原子団がシッフ塩基結合している構造であることが示された。
A new N-terminal blocking group involving a Schiff base in hemoglobin A1c.
この1966年の研究対象だったクロマトグラフィーによる HbA1c 画分は、電気泳動法によって糖尿病患者のヘモグロビンで観察された「異常な」バンドの成分 diabetic component of hemoglobin の正体を特定する手掛かりになりました。HbA1c と糖尿病との偶然の巡り合わせです。
- 1968年
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ヘモグロビンAの HbA1c 画分の構造は、ヘモグロビンAのβ鎖アミノ基末端バリン残基に六炭糖(ヘキソース)分子が共有結合していることが実証された。
Structure of hemoglobin A1c: nature of the N-terminal β chain blocking group.
HbA1c 画分の構造が糖タンパク質(当時は酵素反応によるグリコシル化と考えられていた)であること、糖尿病患者の HbA1c 画分の割合が正常人の約2倍であるという1969年の報告から推測するに、「糖尿病特有の合併症(細小血管症)と関連性があるのではないか」と関心が高まったようです。
- 1975年
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ヘモグロビンAの HbA1c 画分は、ヘモグロビンAのβ鎖アミノ基末端バリン残基にグルコースがアルジミン(シッフ塩基)の構造で結合していることが提案された。
Further identification of the nature and linkage of the carbohydrate in hemoglobin A1c.
- 1976年
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HbA にグルコースが結合して HbA1c を形成する「翻訳後」の化学反応は、赤血球の約120日間の寿命中にゆっくりと継続的に起こり、HbA から HbA1c への変換が非常に遅いことからおそらく非酵素的プロセスによるものと示唆された。
The biosynthesis of human hemoglobin A1c. Slow glycosylation of hemoglobin in vivo.
- HbA1c の形成は次のように提案された。第一段階は、HbA とグルコースが結合したシッフ塩基としての HbA1c 生成であり、その反応は可逆性。第二段階は、不安定な HbA1c にアマドリ転位が起こり、ケトアミンとして安定した HbA1c の生成で、その反応は非可逆性。
この論文では、HbA1c の生成速度は、赤血球内のグルコースの時間平均濃度に正比例するはず
であるから、糖尿病患者の HbA1c レベルは、持続した期間にわたる糖尿病コントロールの妥当性を反映するものだろう
ということが議論されています。
ところで、糖化部位がα鎖N末端バリン残基、あるいはα鎖およびβ鎖のリジン側鎖アミノ基である糖化ヘモグロビン分子については、HbA1c のように名前が付けられていません。
電荷の違いに基づいて分子を分離するというクロマトグラフィーの原理と当時の分析技術では、HbA からこれら複数種の糖化ヘモグロビンを分離できなかった(ので HbA1 画分に含まれてしまう)こともありますし、糖化ヘモグロビン分子群の中で細分化する必要性も無かったと思われます。
ちなみに HbA の微量成分である HbA1 画分(fast-moving hemoglobins とも呼ばれる)は、β鎖N末端バリン残基への付加物に由来する糖化ヘモグロビン分子種のことで、付加物は次のとおりです。
- HbA1a1 → フルクトース 1,6-ビスリン酸(FBP)
- HbA1a2 → グルコース 6-リン酸(G6P)
- HbA1b → ピルビン酸
- HbA1c → グルコース
グルコースの結合部位がβ鎖N末端バリン残基の糖化ヘモグロビンであるところの HbA1c は、α鎖N末端バリン残基やα鎖およびβ鎖のリジン側鎖アミノ基の糖化の有無および糖化の状態を問わないということで、下付き文字の「1c」で表記することにします。
クロマトグラフィーによって分離されたヘモグロビンの一成分、HbA1c 画分の化学物質としての構造は、タンパク質としての生物学的機能を変化させることは無かったようですが、HbA1c の糖尿病に対する関連性が強くなっていく予感を意識させるものでした。